デビュー前夜
今日は競馬ではない話題を少し。
日付が変わって今日11月30日から、神奈川を走る相鉄線が都心に乗り入れる。
大手私鉄といいながら、関東の大手私鉄で東京都に乗り入れていないのは相鉄だけだった。
これが一気に新宿渋谷、埼京線を経由して川越まで乗り入れるんだから、悲願の乗り入れになるんだろう。
昔の昔、俺は鉄ヲタだった。
ガキの頃から電車が好きで、当時の夢は車掌さんになること。
今になって思えば、なぜ運転士じゃなくて車掌なんだろうと思うが...
過度に夢を見ないところ、性格が出ているなと思う。
小〜中学生の頃に興味をそそられたのが相鉄線だった。
急行と各駅停車しかないシンプルな運用、しかも急行も二俣川から先は各駅停車。
そのくせ、妙に独自性があってバリエーションに富んだ車両たち。
淡い黄緑色に濃い緑色と山吹色をあしらった塗装の車両に、アルミ剥き出しに赤い帯の車両、謎のラッピングを纏った車両など、カッコいいわけではないけど妙に心をくすぐるポイントが多かった。
そして中学生になった頃、我が家にもインターネットが本格的に開通する。
ネットを使っていろいろ調べてみると、そんなローカルな相鉄線にもコアなファンがいて、情報交換をしているサイトがあった。
撮った写真を掲示板やらホームページにアップして、レアなの撮れました的なもの。
心をくすぐられた。
こんなコミュニティがあるのかと。
自分も仲間に入りたいと思ってからは早かった。
HTMLを勉強して、無料のホスティングサービスを契約して、簡単ながらホームページをこさえた。
幸運にも、相鉄好きの人たちは暖かった。
年が近い人とも繋がって、朝から夕方まで一緒に写真を撮りに行って、帰ってきたらYahooメッセンジャーでチャットしたり。
あんまり爽やかじゃないけど、振り返ってみると青春っぽいことしてるな。
弟が入院してて〜みたいな相談に乗ったり、高校の単位がヤバくて〜みたいな愚痴を言い合ったり。
それも高校生活も半ばになると、段々と電車への興味が薄れてしまい、疎遠になってしまった。
今日は仕事を早めに切り上げて、横浜に出て相鉄線に乗ってみた。
当時とは塗色が変わって、スタイリッシュな車両。
YOKOHAMA NAVYBLUEという色らしい。
各駅停車の対面シートに腰掛けてゆっくりと横浜を離れる。
当時たぬきそばを啜った天王町の立ち食いそば屋は、とうの昔に閉店してしまったんだろう。
当時無機質だった駅名標も、スタイリッシュなデザインに変わっている。
都心への分岐点になる西谷の駅も、綺麗なホームにリニューアルされていた。
都会へ出るってこういうことなのか。
昔好きだった芋くさい子が、都会へ出て行くような複雑な気持ち。
新宿渋谷に出るんだもんな、オシャレしないといけないよな。
相州の看板娘が頑張ってオシャレして、ついに念願の都会へに出るんだ。
応援したい気持ちと、存在が少し遠くなってしまうような気持ち。
心なしか明るくなった大和の駅で降りて、藍色に光る電車を見送った。
都会っ子になっても、あの暖かさは変わらないでほしいと願う。
たぶんずっと、一番好きな電車は相鉄線なんだろうから。
10代後半の競馬事情
高校生活も佳境を迎えようとしていた頃、その時は横浜ベイスターズの応援に熱を注いでいた。
その頃のベイスターズは暗黒期真っ只中。
先発投手陣は崩壊、メジャーから帰ってきた大魔神佐々木も往年の力は無い状態。
打撃陣も往年のマシンガン打線は見る影もなく。
更に不動の4番タイロンウッズは中日移籍。
2年間務めた山下監督は退任し、牛島新監督を迎えることに。
2005年、牛島新体制になったベイスターズは、暗黒に少しだけ光が射してきた。
先発投手陣の再建、クルーンがストッパーとしてモノになり、ウッズの穴を埋める日本人野手の活躍。
その頃の楽しみは、夜のスポーツニュースを観ることだった。
まだニコニコ動画もYouTubeも一般的ではない時代。
無料で試合の映像を観ることができるのは、ニュース番組のスポーツコーナーとtvkのベイスターズナイターくらい。
その日曜日も、いつも通りスポーツニュースを観ると、競馬の話題が大々的に扱われていた。
「ディープインパクト、無敗でダービー制覇」
外から一頭突き抜けてゴールする映像が流れる。
バケモンみたいだな。そう思った。
競馬に興味がなくとも、あの映像は脳裏の裏に焼きつくものだった。
ーーー
そんなことを書きためていた矢先、彼は急に旅立ってしまった。
体調の問題で種付けを中止していた報せはあったけれど、そこまで悪い状態だったとは...
2020年、オリンピックイヤーに産まれる子供達が、彼のラストクロップになる。
願わくば、あと一歩掴めなかったロンシャンでの偉業を、彼の子供達に掴み取ってほしい。
その時は、彼も背中を押してくれるだろう。
世界のホースマンよ見てくれ、これが日本近代競馬の結晶だ!
無敗でクラシック三冠目を手にした菊花賞、馬場鉄志アナウンサーの実況。
彼が日本の競馬に遺した功績は大きい。
今後も数々の馬の血統表に彼の名前が刻まれていく。
まさに、日本が世界に誇れる名馬だと思う。
ディープインパクトよ、永遠に。
幼少期の競馬事情②
茶の間のテレビでは、フジテレビの競馬中継が流れている。
じいちゃんは、座卓にティッシュを何枚か広げ、そこに柿ピーをザラザラと盛る。
それをポリポリとつまみながら、濃い目の煎茶を啜っている。
このシーン、幼少期の俺には興味の無いもので占められている。
馬が走って順位を競うなんて興味が無いし、柿ピーなんかより缶詰のフルーツミックスが食べたい。
濃い煎茶なんて苦いもんより、バヤリースのオレンジが飲みたいんだ。
そんな茶の間に居座るわけもなく、階段を駆け上がって二階で真っ赤なおもちゃ箱をひっくり返す。
乗り物大集合のVHSを流しながら、プラレールの青い線路を部屋の中に張り巡らせるのが、よくある日曜日の過ごし方だった。
そんなある日、不意に競馬に触れる機会が訪れる。
4歳違いの弟が生まれ、親父の仕事が忙しかったのもあって、休みの日はじいちゃんと出かけることが多かった。
電車が好きなガキだったから、出かける先は大体決まっていた。
田園都市線に乗って、高津にある電車とバスの博物館。
たまに都心まで出て、秋葉原の交通博物館。
今でも総武線に乗ると自然と心が踊ってしまうのは、この時の記憶が強いんだろう。
その日は、特にどこに行くとも言われずに、じいちゃんに着いていった気がする。
正直、行き帰りの記憶は無い。
ただ、今でもはっきりと覚えている光景がある。
「薄暗い空間に、窓口がずらっと並んでいる」
人影はまばらだった。
幼少期の俺には衝撃的な光景。
馬を見た記憶もない。
覚えているのは窓口の光景だけ。
券売機ではなく、手売りの窓口だった。
当時、じいちゃんの本拠地は大井競馬だったから、あれは多分大井競馬場だったんだと思う。
じいちゃん、どうしても買いたいレースでもあったのか。
そして家に帰って、家族に「どこへ行ってきたの?」とでも聞かれて、「ジジと競馬場行った」と答えたんだろう。
じいちゃんは、ばあちゃんに「子どもを競馬場なんかに連れてって!」と怒られたらしい。
まぁ、そう言われても仕方ない。
当時の競馬場なんて、子どもが行くような場所ではないだろう。
こうして、ふとしたことで競馬に触れてしまったものの、競馬への興味は湧かなかった。
そこから小学生、中学生になってもそれは変わらなかった。
高校生になったところで・・・
あの馬が世間を湧かせることになる。
幼少期の競馬事情①
サラブレッドという名称は、「THOROUGHBRED」というスペルからわかるように、「徹底的に(THOROUGH)品種改良されたもの(BRED)」という語源からきています。
競馬の世界は血統が物を言う。
ただ、良血馬が必ず優秀な競走馬となるわけではないが...
幼少期、日曜日の昼はテレビからゴルフ番組が流れていた。
父親はゴルフ狂。
袋麺を茹でながら、木目調のテレビに映る青木功のスイングに目を凝らしている。
そっちの世界では偉大なんだろうが、ガキには妙な喋り方する鳥の巣おじさんとしか思えなかった。
父親は、ニンニクたっぷりの野菜あんかけを乗せた袋麺のしょうゆラーメンを平らげ、そそくさと二階へ上がっていく。
ガキ二人が騒いでると、青木功の声は耳に届かないんだろう。多分。
思い返すと、父親は俺にゴルフをやらせたかったんだろうと思う。
幼少期、父親が使い古したゴルフクラブを短く切って繋いだものを、遊び道具として渡された。
庭の花壇の隙間に穴を掘って小さな植木鉢を埋め、子供用のパターゴルフコースを作ってくれた。
しかし父親の努力も虚しく、俺は今の今までゴルフに興味を持たずにきてしまった。
庭のパターゴルフは、「この角度で打てば確実にカップインする」ポジションを見つけてしまってつまらなくなった。
打ちっ放しに行く父親についていくと、係員から静かにしてくれと注意される。
何より「日曜日にお父さんと遊ぶ時間を奪う」ゴルフは好きになれなかったのかもしれない。
父親が二階へ上がってしばらくすると、茶の間の主であるじいちゃんが計ったようにチャンネルを回す。
さっきまでの青木功の流れるようなスイングと打って変わって、テレビの画面には数字が映し出される。
「ふたばんろくばんで、ふたせんふたひゃくとおえん...」